鹿田 翔平 (Shikata Shouhei)
元プロラグビー選手
– 自らのスクールを設立し、子どもたちへ伝える –
Profile
1989年生まれ
高校からラグビーを始め、全国大会に出場。
高校卒業後、就職を考えていたが、大学からオファーを受け、進学を決意。
流通経済大学に進学後、4年生では主将で創部史上初めて関東リーグ戦1部で優勝を果たす。
卒業後、韓国のラグビーリーグに進み、韓国リーグで初めての外国人選手としてプレー。
帰国後、三菱重工相模原ダイナボアーズ、クボタスピアーズ船橋・東京ベイ、神戸製鋼コベルコスティーラーズの3チームに所属し、現役を引退。
引退後、クボタスピアーズ船橋・東京ベイ アカデミーコーチに就任し、子どもたちにラグビーを指導している。
── 鹿田さんがラグビーを始めたきっかけを教えてください。
私は高校からラグビーを始めました。
元々体を動かすことが好きで、小学校ではサッカーと相撲をしており、中学校でもサッカーをしていました。
当時ラグビーのことは、見たこともないスポーツでしたが、中学校の体育の先生に「お前はサッカーよりラグビーに向いていると思う」と言われ、興味を持ったことがきっかけです。
小学校ではサッカー選手になることも夢見ていたこともあったので、、自分にとっては少しショックでした。笑
実は、高校のサッカー部からオファーをもらっていたのですが、既に尾道高校でラグビーをやると決断していたのでお断りしました。
── ラグビーを見たこともないというのは意外でした!
関東・関西・九州ではラグビーは知名度はありますが、当時、私が住んでいた広島県や中国地方で、ラグビーはほとんど知られていないマイナースポーツでした。
中学3年生の時に、地元の尾道高校が創部3年目に全国大会に出場したことが話題にもなっていたこともあり、自分にとっては未知のスポーツでチャレンジしたいと思いました。
ラグビーに熱中した高校・大学生活
── 高校でラグビーをやっていた時は、プロを明確に目指していたのでしょうか。
高校のラグビー生活は厳しいながらも楽しく取り組んでいました。
尾道高校のラグビー部に入部する先輩や同級生は、ラグビーや他のスポーツの、特待入学生ばかりで、自分だけ一般入学の素人だったので、3年生になるまでプロどころか大学でも続ける気はなく、高校を卒業して就職するつもりでした。
ただ、この先もずっとやりたいとは全然考えていませんでしたね。
尾道高校のラグビー部に入部する先輩や同級生は、ラグビーや他のスポーツの、特待入学生ばかりで、自分だけ一般入学の素人だったので、3年生になるまでプロどころか大学でも続ける気はなく、高校を卒業して就職するつもりでした。
── そこからどのように、ラグビーと向き合い、続けようと思ったのでしょうか。
高校3年生になり、主将を任され、よりラグビーに熱中するようになりました。
当時監督だった梅本先生(現:倉敷高校)に影響され、梅本先生のように、「生徒に100%で向き合う教員になりたい」と思い、教員への道を考えるようになりました。
また、全国大会(花園)に出場し、高いレベルの選手と試合をする中で、「もっとラグビーが上手くなりたい」「自分がどこまでできるかチャレンジしたい」と思うようになったのも理由の一つです。
また、流通経済大学の内山監督(流通経済大学の前監督)が、茨城県から何度も尾道まで足を運んでいただき「一緒にラグビーをやろう」と言っていただき、流通経済大学に進学を決めました。
── 流通経済大学では、どのようなラグビー生活を送っていたのでしょうか?
大学は高校よりも、更に全国からレベルの高い方が集まり、部員も150名を超えており、日々レギュラー争いが激しい環境でした。
また、寮では体育会特有の上下関係もしっかりあり、1年生の頃は、先輩たちにビビりながら過ごしたことを覚えています。笑
毎日厳しい練習を行い、試合でもしっかりアピールができ、1年生から公式戦に出場することができました。
学修面では、卒業だけでなく、教員免許状を取得するために、教職にも取り組みました。
部活と教職の両立は大変でしたが、なんとかこなすことができました!
教育実習として、母校の尾道高校に実習生として行けたことは、すごく貴重な経験になりました。最終学年では、主将を任されました。しかし、4年生に上がってすぐ「東日本大震災」が発生し、練習グラウンドが水没したり、ウエイト場が使用禁止になったりと過酷な状況でスタートしましたが、チーム一丸となり「環境に言い訳しない」と決意を決め、創部史上初めて関東リーグ戦1部で優勝することができました。
韓国での挑戦
── いつ頃からプロを意識したのでしょうか。
大学3年生になった頃から社会人でもプレーしたいと思うようになりました。
早い選手は2・3年生から社会人チームのオファーがあります。
先輩や同級生には声がかかっていましたが、私にはなかなかオファーがなく、悔しい気持ちでした。
そんな中、4年生の夏合宿で訪れた「韓国」で相手チームの監督から、「韓国にきて一緒にラグビーしませんか?」と声をかけてもらいました。
── オファーがあった韓国に決めた理由は、あるのでしょうか。
理由はいくつかあるのですが、、
一つ目は、早く卒業後の進路を決めて、大学ラストシーズンに集中したいということ。
二つ目は、今までの日本人で誰もしたことがなく、新しくチャレンジができること。
というのも、当時は韓国ラグビー界にとって初めての外国人選手でした。
日本からラグビーでいく選手も初めてということもあり、内山監督から「パイオニアになれるぞ!」と言っていただき、パイオニアってかっこいいなと思ったことも大きいです。笑
── 実際に韓国リーグでプレーをしてみてどうでしたか?
ここに書き切れないぐらいのエピソードがありますが…。笑
学びが多く楽しいこともありましたが、しんどいことの方が多かったです。
韓国語は全然勉強せずに行きましたが、現地で毎日勉強をしたり、なるべく多くの時間をチームメイトと過ごしました。
チームに日本人が私しかいなかったこともあり、コミュニケーションがとれないと生きていけないと思い、必死で学びました。
── どのようにコミュニケーションをとったり、勉強をしたのでしょうか?
日本アニメの、ワンピースやナルト、ブリーチなどは、すごく人気があり、共通の話題で話すことができました。
語学スクールに通いたいと思い、ネットで探したスクールに一度行きました。
すごく楽しかったのですが、次に行ってみると、人数不足が原因で閉校になっていました。笑
文化についてもギャップを感じましたね。
当時の韓国は、日本とは比べものにならないほどの、上下関係だったので入部当初はすごく先輩が怖かったです。。
寮生活だったのですが、食べ物は、スープも含めて全ての食べ物が辛く、最初のころは、苦戦し、、、白米のみ大丈夫でした。笑
ただ、そのおかげで、今では辛いものも好きになりました。笑
── ラグビーはどうでしたか?
韓国の選手たちは、特にフィジカルに重きを置いていましたね。
グラウンドに出てボールを触ることやミーティングよりも、ウエイトトレーニングやサーキットトレーニングなどの時間がすごく多かった印象があります。
コンタクトの強さは日本人選手より上だと思いますが、細かいスキルや動き、戦略・戦術については、日本の方が上をいっていると思います。
コーチ陣も日本のラグビーにリスペクトがあって、練習内容やチーム作りなど聞かれることも多かったです。
7人制大会や国内で一番大きい大会の公式戦に出場したりと、1年間の期間でしたが、すごく充実した日々でした。
私がチームに合流した当初は「竹島問題」で険悪なタイミングでしたが、チームメイト含め周りの方々はとても親切に迎えてくれました。今でも一緒にラグビーをしていた関係者は日本で食事したり、韓国旅行に行った際には一緒に遊んだりと関わりがあります。
── 韓国でプレーをした後、日本のチームでプレーをされますが、どのような経緯だったのでしょうか?
オファーではないのですが…、大学の監督から私に、興味を持っているチームが日本にあるから一度練習に参加してみたらどうか?と話しがありました。
その時は、韓国リーグのシーズンオフだったのでタイミングが良いと思い、所属チームの承諾を得て、日本に帰国しました。
2年ほど前までは、韓国人選手が日本のリーグにも多く所属していましたが、今は外国人選手のルールが変わり、日本のリーグでプレーする韓国人選手はほぼいなくなってしまいました。
今では、シーズンオフを利用して短期で韓国リーグでプレーしにいく日本人選手もいます。韓国と日本がラグビーによって、より良い関係になってくれたら良いと思い、私はプレーしていたので、長い年月がかかりましたが、韓国人コーチが日本にコーチングの勉強にきたり、日本人選手がプレータイムを求めて韓国に行ったりと関係が築き上げれてきたと思います。
現役中から引退後のキャリアを考えていた
── 日本でプレーをしてみて、海外との違いはありましたか?
その国によってのこだわりや特色はあると思います。
日本であればラグビーの環境が整っていて緻密な戦略と細かいスキルにこだわりを感じますが、韓国のラグビーは、先ほどもお伝えした通り、選手一人ひとりの身体も大きく、フィジカルで圧倒していくスタイルです。
同じアジアなのに韓国人は日本人と比べてもスピードとパワーに優れている人が多いと思います。
── 現役でプレーをする中、引退後のビジョンなどはいつ頃から考えていたのですか?
大学生の頃から、高校教員になりたいと思い教員免許状も取りましたが、色々経験していく中で教員とは違う道も良いなと考えるようになりました。
20代後半から怪我が増えてきて、その頃から本格的に引退後のセカンドキャリアについて考えましたね。
スポーツを通した「教育」をしたい
── 20代後半から、引退後に向けて考えていたとのことですが、勉強していたことなどはあるのでしょうか。
チームに外国人選手も多くコミュニケーションを取りたい、自分の幅を広げたいと思い、英語の勉強をしていました。
定期的に対面型のマンツーマンで習ったり、オンラインレッスンを受けたりしました。
2年間ほど色々やりましたが、あまり上達はせず途中で断念しました。笑
あとは、セカンドキャリア講習なども受講しましたが、ラグビー以上に、自分自身がやりたいと思えることには出会えなかったですね。
── 引退後に、ラグビー(スポーツ)以外のことに関わるという選択肢はあったのでしょうか。
はい、ありました。
私は食べたり、大勢でお酒を飲みにいくことが好きだったので、飲食業界には興味がありました。
よく通っていたステーキ屋さんに、ここで働けないかと話もしたことがあります。笑
今までがラグビーばかりの人生だったので、他のことも経験してみたいという気持ちは、今でもあります。
ただ、自分が本当にやりたいことを考えた時に、子どもたちに「スポーツを通して教育をしたい」ということをやりたいと考えるようになりました。
少しでも教育の現場にいれる環境を、作っていきたいと思っています。
── 引退後(現在)、クボタスピアーズのアカデミーで子どもたちに指導をしていますが、どのようなときにやりがいを感じられていますでしょうか。
子どもの成長を間近で見れることなどたくさんありますね。
学校には行きたくないと言っている小学生が、アカデミーには毎回楽しみにきていると保護者から話を聞いたときは、子どもたちの「居場所作り」にもなっていると感じました。
社会を引っ張るリーダー、周りの人などに感謝するなど、自分の経験も踏まえながら伝えていき、変わっていく姿を見れることも大きいですね。
── 現役中に、どのような引退後の準備や意識をしておけば良いでしょうか。
現役選手は自分が試合に出てパフォーマンスを発揮することに全力を注ぐべきだと思います。
ただ、いつかは「引退」します。
なので、次のキャリアに向けて1日に、1時間でも30分でも考え、行動する時間はあった方が良いと思います。
また、日頃からさまざまなことに興味を持つことも大事だと思います。
私の場合、飲食業界の経営に興味があったので、メニューやインテリア、接客など、自分だったらどうするか?と考えたりしていましたね。
プロ選手として活動をしていると、スポーツの世界の人たちと過ごすことが多いのですが、異業種の方たちと話しをするだけでも、視野が広がっていきます。
現役生活は目の前のプレーを全力でしながら、引退という怖さとも向き合わないといけません。
引退後のビジョンもしっかり考えることで、メンタルが安心し、パフォーマンス発揮に繋がると思います。
── 今後のビジョンについて、どのようなキャリアを歩んでいきたいか、などありますでしょうか。
子どもたちが何か熱中できることを見つけて目標に向かって頑張れる環境を作っていきたいと考えています。
「ラグビー選手になりたい」「志望校にいきたい」「教員になりたい」など、自分の夢や目標を考え、そのためにどんなアクションプランを立てていくか、
具体的に考えるサポートをしたいです。
── 具体的にどのようなことをしていきたいのでしょうか。
スポーツと学習ができるようなクラブを作りたいですね。
クラブの中では子どもたちに、「考える力」を付けて欲しいと思います。
「なぜ?」「どのように?」という問いかけを大事にして、ただ教えてもらったことをやるのではなく、主体的に行動できるようになってもらいたいです。
これまでスポーツを通してたくさんの人生経験をさせてもらいました。
自分の好きな競技だけ上手くて、勉強は全くせず、謙虚さもなく、周りに感謝もできない人間には魅力は感じないです。
周りを助け、周りから力をかりられるような人材育成のために、スポーツのスキルだけでなく、人間性への指導にも力を入れていきたいと思います。