井原 実 (Ihara Minoru)
元公認会計士/元公益財団法人バレーボール協会 理事
– 行動することで、道がひらく –
Profile
1947年生まれ
慶應義塾高校から慶應義塾大学を経て、飲料会社に就職。
同社退職後、公認会計士試験に挑戦し、3年後に合格後監査法人に入所。
アメリカで事務所を開くなど、日本とアメリカを拠点に活躍。
その後、Vリーグ機構、公益財団法人日本バレーボール協会の理事に就任。
現在も日本とアメリカを拠点に、起業家の支援や、アスリートとの交流を通してキャリアへのアドバイスなどを行なっている。
── 井原さんは、慶應義塾大学を卒業されていますが、いつ頃から目指されて、学業に専念されていたのでしょうか。
小学校時代から漠然と、慶応に入りたいという思いがありました。両親も教育熱心でしたね。
中学時代は、2年までバレーボール部に所属し、高校受験科目だけ(3科目)はかなりしっかりと勉強をしました。
その結果、目標としていた慶應義塾高校に合格しました。
── 見事、慶應義塾高校に合格した後は、どのような高校生活を送っていたのでしょうか?
自分が目標としていた学校に合格したため、気が緩んでしまい、高校ではほとんど勉強せずに、バレーボール部の活動が中心でしたね。
2年生からマネージャーになり、3年生の時は、関東6大学附属リーグ連盟の委員長に任命され大会の設営、運営をしたりと、非常に有意義な経験でした。
ただ、麻雀を覚えて、賭け麻雀をしているのが見つかり停学1週間という苦い経験もありました。。笑
高校から大学へも、内部の進学制度があったので、なんとか大学に上がれました。
高校の時の勉強不足もあって、第2志望の商学部に入りました。
仲間に支えられた大学生活
── 慶應義塾大学に進学された後も、バレーボールを続けたのですか?
はい。続けました。
体育会のバレーボール部に入部しましたが、選手としては使い物にならないレベルで、4年間ボール拾いでした。。笑
3年生の時からマネージャーを務め、多くのOBの方とお会いする機会に恵まれ、たくさんの薫陶を得られました。
高校同様に、大学も勉強をすることなく4年間を過ごしましたが。笑
お恥ずかしい話、最近10年くらいは流石に見なくなりましたが、
夢で試験の準備をしていなかったこと・・・
教室がどこだか分からないこと・・・
学期の始めにどのクラスを取るのか提出していないこと・・・
卒業していないなど夢に出てくることもありました。笑
いかに最低の学生だったか分かるでしょう。笑
大学4年間は、勉強はほぼ0%、部活が100%の生活でしたからね。笑
ただ落第をせずに卒業できたのはノートを貸してくれたり、勉強を教えてくれたりと、クラスメートの助けがあったからです。
本当に感謝しています。
また、授業料を払ってくれた親にも申し訳ないという気持ちですが、親孝行したい時には親は在ずです。
こういう経験から勉強の大切さを後輩たちに知ってもらいたい次第ですね。
苦労した就職活動
── 将来つきたい仕事などはあったのでしょうか。
全くありませんでした。
就職活動は、体育会のマネージャーは希望する会社に大体入れると思っていました。過信が裏目に出て第一希望の中堅商社を「不合格」になり、
就活難民になってしまいました。考えが甘かったですね。。笑
ただこの不合格が幸運になるのです。この商社が38歳の時に倒産するのです。
「人間万事塞翁が馬」、そのものでした。
テレビ局も受けようとしましたが、テレビ局に働いている先輩から「どのような番組を制作したい?」と聞かれた際、
私はそこまでの考えもなかったため答えられず番組制作の信念がない人はテレビ局に来るべきではないと言われ断念しました。
いろいろと考えが甘かったです。
その後、友達のコネで飲料会社のセールスマンとして内定をいただきました。トラックを運転し飲料を配達することがメインの仕事でした。
就職活動を真剣にした記憶はないです。将来何をしたいのかも考えていませんでした。
当時、学生運動でキャンパスが封鎖されたりもしていましたが、それにも無関心で本当にダメな学生だったという限りです。
ちなみに、恋愛もガールフレンドもいませんでした。笑
ただ、大学生活4年間は、本当に楽しかったです。
反省としてあるのは体育会は昔は非条理・不条理がまかり通る組織であったため、考えるという訓練ができていなかったことです。
社会人一年目
── 飲料メーカーに勤めたとのことですが、どのようなお仕事をされたのでしょうか。
仕事は、トラックを運転してのセールスという力仕事でした。仕事内容は分かっていたのですが、
社会人一年生としては背広でネクタイをしめて働きたいという気持ちがどこかにありました。
入社後2年半が過ぎた時に、くるぶしを骨折して1週間ほど休んだのですが、その時初めて将来のことを真面目に考えました。
それまで何も考えていませんでしたからね。
そのときが24歳だったので、自分がいかに幼稚だったか。
夏の繁忙期の前に退職を決めました。
自分を変えた試験勉強
── その後、公認会計士を目指されると思うのですが、会計関係は得意だったのでしょうか。
全く得意ではありませんでした。
今後のことを考え、まずは資格を取ることが良いかと思い、資格を探しました。
会計関係の資格として「公認会計士」「税理士」「日商簿記1級」と幅広くあり、経理関係を勉強し
ておけば、就職に困ることはないのではないかと思い、「公認会計士」を目指しました。
大学は商学部だったので試験科目の簿記、会計、原価計算、監査論、経済学、経営学、商法は
全て大学での必修科目でしたが、何の知識も残っていませんでした。笑
小学生と机を並べ
── 知識も残っていないとのことですが、どのように勉強をして合格したのでしょうか。
まず行ったのが、簿記学校で3級から始めました。
その当時まだ電子計算機はなく、算盤ができないと、原価計算などは答えを出せないので、家の近くの算盤塾に行き、小学生と一緒に練習をしました。
スピードは小学生に負けたため、罰としてアイスクリームを奢らされたのはいい思い出です。笑
1日10時間以上、毎日勉強をした結果、合格まで3年かかりました。
平均より1年多かったのですが、合格して一安心でした。
勉強に慣れるのと、本を読む力に到達するのに1年位かかった記憶があります。
この3年間は友達に会うこともなく、お酒を飲みに行くこともありませんでした。
この会計士試験の勉強は自分を変えた時間で、人生で有意義な時間でしたね。
勉強の大事さ、面白さを体験できたのは色々な面で恵まれていたからでしょう。
公認会計士としてアメリカで
── 公認会計士に合格した後は、監査などをメインに仕事をしたのでしょうか。
公認会計士は、企業監査などをするというイメージがありますよね。
ただ私は、監査業務は苦手ということが分かりました。笑
その当時は2次試験に合格すると会計士補となり3年間の実務経験などを経て、試験の受験資格が与えられるという時代でした。
監査法人に入所して監査業務に携わったものの、監査が苦手という事を自覚し、何かもう一つ武器がないとダメかなと思い「英語」を勉強しようと決めました。
小さいころから憧れがあったアメリカに、英語の勉強をしに行くことにして、監査法人を休職しました。
半年くらい滞在すれば、英語ができるようになるかなという安易な気持ちで行ったのが間違いでしたね。笑
── 井原さんの行動力はすごいですね。そこから、アメリカで働くようになったのでしょうか。
行動力はすごくあったと思います。
ラッキーだったのが、所属していた監査法人の上司の方が、「ロサンゼルスに事務所を開設することにしよう」と言ってくださり
ロサンゼルスに駐在ができるようになりました。
監査業務などは相変わらずダメでしたが、営業は成果を上げることができ、クライアントの獲得は順調に成果を上げていきました。
その時点ではまだ、3次試験が終わっておらず、士補の資格だったので、1度日本に戻り3次試験を受け2回目で運良く合格し公認会計士になりました。
アメリカ大手の会計事務所からのオファー
── 日本には戻らず、アメリカを拠点に活動していくと決めていたのでしょうか。
38歳になった時に、日本に帰ることを考えていました。
ただ、その年にロサンゼルスに戻り先輩会計士と一緒に事務所の経営に取り組んでいたのですが、
その当時のアメリカの8大会計事務所(現在はBig4と言われ世界最大の会計事務所)の一つから誘いを受け、色々と考えた結果、誘いを受け入れました。
語学力がないと言う弱点はありましたが、日本企業の開拓には自信があったので挑戦する気になった次第です。
ただし、条件としてロサンゼルスには自分たちが開設した事務所があるので、ロサンゼルス以外の都市に行くことを条件に上げました。
── アメリカは、結果にはシビアなイメージがありますが、どうなのでしょうか。
シビアでしたね。
アメリカの会計事務所ということで、成果が出なければ解雇されます。そのため、私は得意としているクライアント獲得に力を注ぎました。
運良く3年目にかなり大きな仕事を獲得したので存在を認められるようになりました。
スポーツでもそうですが、結果を出さないと認めてくれないですよね。
その後、入職15年目くらいから結果を思うように出せなくなったのと、今後のキャリアを考え、早期退職を50代前半で決意しました。
その間、日本とアメリカ往復の回数は200回以上はしたと思います。
スポーツ界との関わり
── Vリーグ機構は、どのようなつながりから関わったのでしょうか。
アメリカの事務所を辞めて日本に戻ったあと、コンサルの仕事を中心にしていました。
その時、友人から日本バレーボールリーグ機構(Vリーグ)に関わってくれないかという依頼を受けました。
スポーツ界にいたわけでもないので、驚きましたが、引き受けることにしました。
仕事としては、月1回の理事会に出席する程度で、本当の意味での経営には入っていません。ガバナンスを中心としたことが役割でした。
ミュンヘンで金メダルを取った木村憲治さんが会長に就任し、その下で副会長として仕事をするようになりました。
写真引用:一般社団法人SVリーグ/一般社団法人ジャパンバレーボールリーグ オフィシャルサイト
── その後、日本バレーボール協会にも関わったのですね。
はい。また木村さんにお誘いをいただき、業務執行理事として関わらせてもらいました。
日本のバレーボール界は成功体験が先に来ていたため、VリーグでもJVAでも変革に対する真剣度が低く思えました。
良く「失敗から学ぶ」と言いますが、戦後半世紀以上の間、失敗を知らずに進んできた競技だと言えるでしょう。
残念ながら大きな成果を上げる事はできず退任しました。
アスリートのキャリアについて
── アスリートのキャリアについて、どうお考えでしょうか。
バレーボールからの経験で限られるかもしれませんが、どの競技もアスリートたちの置かれている立場や考え方は似通っているでしょう。
多くのアスリートは幼少期から一つのスポーツに特化しており、その時点から見る世界が狭まっているように感じます。
プロを目指す人は特にそのスポーツだけにしか、目が行っていないように感じました。
私がアスリートと話をしている際に、スポーツ以外のことで話すと急に口数が少なくなったケースもありましたね。
勉強をしなければいけないという意識は、ほぼ全員が持っていると思います。
何が得意か、何が好きというところまでたどりついていないのだと思います。
本を読む大切さなど、子どものころからずっと言われてきたでしょうが、言われたことを置き去りにしているのだと思います。
指導・助言をしてくれる人、メンターをつければ、急速に成長するのではという思いはありました。
アスリートは一つの競技を幼少期からずっとやっています。その集中力があれば、必ず急速に成長します。
── 井原さんは日本とアメリカを拠点に活動されていますが、アスリートのキャリアについての違いなどはありますでしょうか。
学生時代に勉強をしているかいないかは大きな差があるのは確かでしょうね。
現在いる日本のスポーツ指導者で文武両道をしてきた人は、あまり多くないのではないでしょうか。
私も学生時代はスポーツだけをやってきましたからね。。笑
勉強をする重要性を教えられていない印象があります。
── 引退した後のキャリアとして、「スポーツ関係で働きたい」「スポーツ指導者になりたい」という方が多くいますが、その点についてどう思いますか?
スポーツ関係で働きたいというのが、悪いというわけではありません。
ただ、もう少しいろんな業界、視野を広げて欲しいと思っています。
世の中にはいろいろな仕事があります。起業をするのも良いでしょう。
視野を広げるためには、人と話すことが一番かなと思います。二番目は読書です。
闇雲に勉強をするのではなく、まずはやりたいことなどを見つけて、そこに向けて努力をしていくことがいいのではと思います。
一人ひとり考えていること、悩みは違います。
そのため、メンターなりコーチングの人なりと一対一でじっくり話をしながら、何が向いているかなど見つけていければいいですね。
── アスリートのキャリアについて、最後にメッセージをお願いします。
子供の頃から一つのスポーツに没頭し、プロかそれと同レベルの競技者になった人は同年代の人数の10000分の1にも満たないのではないでしょうか。
それだけアスリートは希少価値なわけです。その希少価値を活かすも殺すもあなた次第です。ただ活かすためには勉強が必要です。
人は誰しも「強み」と「弱み」、「長所」と「短所」、「得意」と「不得意」がありますがこれらは表裏一体の関係にあります。
弱みを強みに変えることは可能です。
アスリートは視野が狭くなりがちと言われますが、これも将来たくさん学ぶことで新しい発想を生み出すこともできると思えば良いわけです。
何かをする時に「判断」「決断」「実行」が伴うわけですが、3要素は大切です。多面的か一面か、全体か部分か(木を見て森を見ず)、
長期的か短期的見ず。この3要素はスポーツでも同じですから皆さんはもう既に身につけているはずです。
アスリートは何かの才能を持っています。
そこにあるポテンシャルはスポーツだけでなく、他の世界でも活かせるはずです。
集中力や向上心、達成するまで諦めない強い心を持っている人が多いです。
スポーツによって鍛えられたこのような才能をどのように活かして良いのか分かっていないケースが多いです。
繰り返します。それを知るには「勉強」です。
上手くなりたいと思ったとき、小さい時に本を読んだり、テレビで何度も有名選手のプレーをビデオで見たはずです。
それと同じことを今日から始めれば良いだけです。あなたはその才能を持っています。
ドアを開けたら今まで見たことのない世界が目に飛び込んできます。
スポーツで知った努力の大切さを活かしてください。
時間がかかるかもしれませんが、必ず成功への道を歩けるはずです。
扉を開けて大きな世界に踏み出してください。
ぜひ、あなたしか歩けない、新しい道を歩いてください。